国分功一郎著「暇と退屈の倫理学」を読む その2

この本の第1章は、暇と退屈の原理論と称して、3人のヨーロッパの
哲学者の退屈論が紹介され、著者の意見が述べられている。

最初に取り上げられたのは、かの「考える葦」で有名な17世紀フラ
ンスの思想家ブレーズ・パスカルである。パスカルは、その著作「パ
ンセ」の中で、この本(国分氏の)の暇と退屈についての考察の出発点
となる“気晴らし"について分析している。

パスカルの次の言葉が大変印象的だ。

「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていら
れないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうでき
ない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。」

パスカルは、部屋にじっとしていられない人間が、気晴しのために
行う“ウサギ狩り"について、「ウサギ狩りに行く人は、ウサギが欲し
いのではない」「不幸な状態から自分の思いをそらし、気を紛らせて
くれる騒ぎがほしいだけ」だという。

“ウサギ狩り"は現代ではあまり一般的な遊びではないので、“魚釣り"
で考えてみよう。釣りをする人は、“魚"を得ることが目的ではない。
“魚"を得るだけなら、魚屋へ行って買ってくるといい。“魚釣り"は
釣りに行く前日の道具の準備、釣れるか釣れないかなどの期待や不安
当日の乗船から釣場で釣り糸を垂らしアタリを待つ間の時間、魚
が掛かって釣りあげるまでのやりとり、この一連の“プロセス"が“魚釣
り"である。

パスカルは、気晴しは要するに何でもよいが、条件はある、それは
“熱中できるもの"である必要がある、という。「人は熱中し自分の
目指しているものを手に入れさえすれば幸福になれると思ぃこんで
自分をだます必要があるのである。」という。(魚釣りに行って魚を
沢山得たら幸せと錯覚する)(この錯覚について考えてみるといろいろ
と思い当るフシがある。例えばゴルフの目標とするスコア。偶々うま
くいって目標スコアをクリアした時に感じる達成感よりもむしろなん
となく空虚な感じ。実はスコアを達成するプロセスが面白いのであって、
スコアそのものが欲しい訳ではなかつたのだ。もっとも、達成困難
な目標があることが、プロセスを面白くするのだが)

パスカルは、欲望の対象と原因のとり違えをする人はおろか者である
が、これを指摘している人はもっとおろか者であるとも云っている。

パスカルの解決策は“神への信仰"だと著者は云うが、この結論には
飛躍があり、「パンセ」を読んでみなければ良くわからない。
結論はともかく、パスカルの“気晴し"についての分析は大変面白い。

パスカルの次に取り上げられているのは、バートランド・ラッセル
(1872―1970、「幸福論」)だ。

ラッセルの退屈論は、「退屈とは事件が起こることを望む気持が
挫かれたものである。」「ひと言でいえば、退屈の反対は快楽では
なく興奮である」。このことからラッセルは、「幸福であるとは、
熱意をもった生活を送れること」だという。

著者はラッセルの考え方を「熱意をもって取り組むべきミッション
を外側から与えること、それを幸福といってよいのか」と批判して
いる。ラッセルの考え方は、現実からの逃避、“不幸"への憧れなど
に繋がるとも云っている。

三人目はノルウェーの哲学者スヴェンセン(1970―、「退屈の小さな
哲学」)だ。
スヴェンセンは、「退屈が人々の悩み事となったのはロマン主義の
せいだ」と云う。ロマン主義は「人生の充実」を求めるが、それが
何を指しているか分らない、だから退屈する。
彼の決論は、「ロマン主義と決別し、実存のなかで個人の意味を見
つけるのを諦めること」だ。

この詰論に対して著者は、スヴェンセンの結論は消極的な解決策だ
という。

がしかし、スヴェンセンの問題提起「ロマン主義の“人生の充実"
“個人の意味とは"などからの決別」とは、どういうことなのか。
現代においても、“自分さがし"をしている人が多いと思われるが
“私とは何か"“人生に意味はあるのか"今一度考えてみてもいい気が
しないでもない。決別するのはそのあとからでいい。

…………… ……………… ………………
“気晴し"の水彩画を1枚。
顔がなかなかうまく描けない。

“良い絵"そのものが目的ではない?。“良い絵を描くプロセス"が面
白いのか?(チョット違うかな?)
画像


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