国分功一郎著「暇と退屈の倫理学」を読む 最終回

〔結論〕

著者は、本書の結論として三つのことを上げているが、一つ目の結論
は、結論と言うよりは、あとの二つの結論の前提となる事柄について
述べられたものなので、実質的な結論としては二つともいえる。

ともあれ著者の述べることに従ってその内容をみてみよう。

一つ目の結論 は、「こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う
必要はない、というものである。」なぜなら、「本書を読むこと、
ここまで読んできたことこそ、<暇と退屈の倫理学〉の実践の一つに
他ならない」から。(P338)

続いて著者があとの二つの結論に向うに際して、その前提は「本書を
通読するという過程を経ること」だという。本書を通読せず以下の結
論だけを読んだ読者は間違いなく幻滅するであろう。」

また「以下に掲げられた結論はどちらも、それに従えば退屈は何とか
なるという類のものではない。その方向性へと向かう道を、読者がそ
れぞれの仕方で切り開いていくことになる、そういう類の結論である」
とも云い添えている。

二つ目の結論は、「贅沢を取り戻すことである。」
「贅沢とは浪費することであり、浪費するとは必要の限界を超えて
物を受け取ることであり、浪費こそは豊かさの条件であった。現代社
会ではその浪費が妨げられている。人々は浪費家ではなくて、消費者
になることを強いられている。物を受け取るのではなくて、終わるこ
とのない観念消費のゲームを続けている。」この観念消費のゲームか
ら脱けでるためには、「物を受け取れるようになるしかない。」「し
かしそこにはいくつかの課題がある。ここに言う〈物を受け取ること〉
とは、その物を楽しむことである。たとえば、衣食住を楽しむこと、
芸術や芸能や娯楽を楽しむことである。しかし「楽しむためには準備
が不可欠だということ、楽しめるようになるには訓練が必要だという
ことである。」(P344)「訓練が必要なのは別に『教養』を必要とする
娯楽だけではないのだ。食のような身体に根ざした楽しみも同じく訓
練を必要とするのである。本書はだからこそ、そのような日常的な楽し
みに、より深い享受の可能性があることを強調したいのである。」(P
345)「人はパンのみにて生きるにあらずと言う。いやパンも味わおう
ではないか。そして同時に、パンだけでなく、バラももとめよう。人
の生活はバラで飾られていなければならない。」(P349)

三つ目の結論は、「〈動物になること〉」である。
前章でも、この〈動物になること〉という表現の理解に戸惑ったが、
著者はこの結論に相当な思い入れを持っているようなので、ここで今
―度理解に努めてみたい。まず、〈動物になる〉とは、我々が通常言
うような意味ではないということだ。「人間は他の動物に比べ、相対
的に、しかし相当に高い環世界間移動能力を持っている。そしてこの
事実こそ、人間であることのつらさの原因でもあった。なぜならそれ
は、人間が一つの環世界にひたっていることができず、容易に退屈し
てしまうことを意味するからだ。人間が人間らしく生きることは退屈
と切り離せない。ならば、こう考えられるはずである。人が退屈を逃
れるのは、人間らしい生活からはずれたときである、と。そして、動
物が一つの環世界にひたっている高い能力をもち、何らかの対象にと
りさらわれていることがしばしばであるのなら、その状態は〈動物に
なること〉と称することができよう。」(P350)「人は、自らかが生き
る環世界に何かが『不法侵入』し、それが崩壊するとき、その何かに
ついて対応を迫られ、思考し始めるのだった。思考する時、人はその
対象によってとりさらわれる。〈動物になること〉が起こっている。
『なんとなく退屈だ』の声が鳴り響くことはない。」
ここまでみてくると、著者が〈動物になること〉という表現でどのよ
うなことをイメージしているのか読めてくる。〈動物になること〉と
は、“人は、生きている環世界を習慣によって感じたり考えたりする
エネルギーを省略化しているが、そこへ何らかのきっかけで、感じた
り考えたりしなければならない状況にぶつかり、その状況にひたるこ
と"と言い換えることができる。

そこで更に著者は、この第三の結論が、第二の結論に向っていく、と
言う。退屈を時折感じつつも、物を享受し、楽しんでいる生活、即ち
退屈の第二形式を生きている生活には、安定と均整があり余裕があっ
た。「人は決断して奴隷状態に陥るなら、思考を強制するものを受け
取れない。しかし、退屈を時折感じつつも、物を享受する生活のなか
では、そうしたものを受け取る余裕をもつ。これは次のことを意味す
る。楽しむことは思考することにつながるということである。」「食
べることが大好きでそれを楽しんでいる人間は、次第に食べ物につい
て思考するようになる。」(P352~3)「こうして考えると、〈動物にな
ること〉という第三の結論は、〈人間であること〉を楽しむこととい
う第二の結論を前提としていることが分かるのである。」(P353)
“食べ物について思考する"これが著者の言う〈動物になること〉の
具体的なイメージである。

著者は、「どうしても退屈してしまう人間の生とどう向き合って生き
ていくか」という問に対する結論として「人間であることを楽しみ
〈動物になること〉を待ち構える」ことだと述べている。(P354)

そして更に著者は、この結論の能力を獲得した人間が向う別の方向性
について次のように補足している。それは、退屈とどう向き合って生
きていくかという自分にかかわる問いから、戦争、飢饉、貧困、災
害などで人間らしい生を生きることを許さない人たちなどの他人に
関わる事柄を思考するという方向性である。


以上、このブログで8回にわたって、長々と「暇と退屈の倫理学」を
取り上げてきた。本の感想を書くつもりが内容の紹介になってしまっ
た。これも、この本が、適当にお茶を濁すような感想を許さないよう
な広汎かつ深い内容をもっていることが原因であった。実は、この本
を買って読んだのは、昨年の1月頃だったが、ブログに書くにあたって
2~3回読み直してみて、再読で発見することや分ることも多かった。

最後に―言述べておきたい。
一つは、自分には日常「退屈」をあまり感ずることはない、むしろ
「退屈」に代わる言葉としては、「なんとなく何か張り合いが無い」
とか「ときに充実感が感じられない」とか「なんとなく虚しい」とい
う言葉の方が相応しいと考えている、ことだ。
ただこの言葉の違いはあるものの、「なんとなく退屈だ」には「なん
となく張り合いがない」というような気分が漂っており、また著者の
「退屈」に向き合う処方箋は、「張り合いの無さ」に向き合う処方箋
に十分なり得ると考えている。

もう一つは、「労働」と「暇」についてである。著者は、マルクスの
「自由の王国」の条件は労働日の短緒である、を引用して、「暇の王
国」こそが「自由の王国」だとしているが、そうであるとすれば、
一体「労働」とは、何なんだろうか。労働は「苦役」でしかないのか。
人は苦役という労働の奴隷でしかないのか。労働も余暇もともに「自
由の王国」の活動の場とすることは出来ないのだろうか。そのために
は多分、資本主義社会における労働のもろもろの問題の解決も必要と
思われる。また高度成長期が終り、バブルがはじけ、長いデフレに悩
む現在の日本においては、働くことの質もかなり悪化しているのでは
なかろうか。このような状況化で、「働くことを楽しむ世界」を創り
だすことは容易ではないが、それは、目指す価値のある世界だと思う。

最後に、日本の大多数を占めるサラリーマンの「現役」と「退職後の
生活」の分断についてである。「生涯現役」という言葉があり、それ
を実践している人もいるだろうが、まだまだ少ない。退職後も多様な
働き方を楽しめる社会であればと思うがどうだろうか?





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